1.「衆議院財政金融委員会」
本日は、衆議院財政金融委員会で10時40分から、長男健太が、植田日銀総裁に質問だそうだ。めったに見ないのだが、初めての質問だそうなのでWebの衆議院テレビを見ようかと思っている。
https://www.shugiintv.go.jp/jp/
2.「文藝秋主催「藤巻健史×山本謙三「どうする? 植田日銀」
本日は文藝秋主催「藤巻健史×山本謙三「どうする? 植田日銀 伝説のディーラーと日銀元理事の金融放談」藤巻健史 山本謙三 19時から。
3,「都立新宿高校」
本日の日経新聞「私の履歴書」に作曲家・池辺晋一郎が新宿高校について書いている。「当時、1960年前後は、孟母なら怒り出すのでは、と思うほど環境の悪い場所にあった。新宿の街なかに、煤(すす)で真っ黒の校舎。校庭の塀の向こうは、いかがわしい安旅館街。反対側は新宿御苑で、塀には常に大きな穴。僕らはその穴から御苑にもぐり込み、弁当を食べた。そこは、広い御苑の最も隠微なところで、食べていると、そばの樹木の影でうごめいていたカップルがこそこそと逃げ出したりした」。懐かしい記述。私は3歳の時、母を亡くしたので、1953年から56年まで新宿高校から100m位離れた御苑沿いの祖母の家に住んでいた。新宿2丁目の赤線が消滅したのが1958年3月31日だから、池辺氏が書くところの、いかがわしいところのド真ん中の時代にその場所に住んでいたわけだ。赤線生まれの知能発達障害の17歳のお兄さんとよく遊んだ。性格は滅茶苦茶よく親友だった。渡辺氏が書くように、新宿御苑の塀には常に大きな穴が開いており、私たちの遊び場は新宿御苑と伊勢丹のおもちゃ売り場だった。もっとも、このお兄さんよりもう少し年上のきれいなお姉さんには、遊ぼうと声をかけられてもついていっちゃいけない、と言われていた(まだ、ひとさらいなどという言葉がはやっていた時代だ)。きれいなおねえさんに今でもついていかないのは、歳のせいだと思っていたが、今,考えるとあの時の教育のたまものだったかもしれない。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD082XB0Y3A100C2000000/
(↓新宿御苑と、そのわきを走る建設中の青梅街道。新宿高校のすぐそば)
私は、ここから都電に乗って、(我が人生の最高学歴である)四谷の雙葉幼稚園に通った、